それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

セミリンガル。

「エトセトラジャパン」様記事引用失礼します。

 

 

 

以下引用

 

インターナショナルスクールは日本の学校に比べると、やはり日本語環境という意味では、日本語に触れる時間数が少ないのが実態。「読む」「書く」に関してはどうしても弱くなる

 

特に漢字や文章を書く力が乏しいことが多く、慣用句、故事成語、四字熟語については、ほとんど知らないと言っていいかもしれない。また、「話す」「聞く」に関しても、敬語に関する知識が少ないなどの不安がある。

 

 

普通の日本の中高等学校であれば、すべての授業は日本語で行われるので、現国の時間以外にも日本語の勉強をしていることになり、こういうことはインターナショナルスクールでは期待すべくもない。

セミリンガルになってしまう懸念もある。

 

 

言語の習得は「日常レベル」と「知的レベル」の2段階に分けられる。

友達や恋人と話したり、コンビニで買い物をしたり、といった類の話は日常レベルで十分であり、これは小学校まででかなり身につく。

江戸時代なんか、国民の多くが、日常レベルから知的レベルへ飛躍することすら期待されていなかった。

しかし現代社会は、色々な職業で知的レベルの言語スキルが求められる。

圭君が図らずも職業とした弁護士がいい例である。

 

言語スキルが日常レベルから知的レベルへ飛躍しないのを、セミリンガル(Semilingual)といい、日常生活ではほぼ問題なく複数の言語を操れるものの、「深くまで理解できない」状態であることを指す。

 

内容が難しくなると、途端に言葉が頭に入ってこなくなり、抽象的な表現を使いことなすことも苦手だと感じるそうだ。

セミリンガルのまま成長していくと、やがて物事全般を深く考える力が向上しなくなるといい、進学や就職といった大きな局面で不利になることがあるという。

 

中高をインターナショナルスクールで過ごした圭君のような若者では、まさにこのリスクに直面することになる。

母国語を完全に使いこなせない状態で英語中心の学校生活になり、いずれの言語も深く習得できないまま、年齢を重ねていくからだそうだ。

つまり、家庭で日本語を知的レベルまであげる努力をしないと、日本語は永遠に日常レベルにとどまったままとなる。

インターナショナルスクールに通った日本人生徒のすべてがセミリンガルになってしまうわけではないが、親は常に知的レベルの高い会話をするよう心がける必要があるという。

 

上記引用

 

今世界にはこんなところにまで?と言うくらいあらゆる場所に日本人は駐在したり移住したりしている。

そんな方々がお子さんを持って、その子供の言語をどのように育てようかと悩み、試行錯誤されている

SNS上の投稿を目にすることが多い。真顔

 

バイリンガルでも、トリリンガルでも、それ以上でも母国語以外の言語を理解できるのは素晴らしいことだと思う。

でも、そういう環境の中にいて親の母国語を如何に育てようかと悩むのは当然だと思う。

 

ある例は、

詰まるところ、親が病に伏せた時、当然母国語でその症状を訴えることになる。

その時に、子供の母国語が異なっていると、微妙な症状は理解されないことになる。

その方は、結局のところ、せめて、そんな状態くらいは理解してもらえる程度の親の母国語

を習得してほしいと書かれていた。真顔

 

皇后雅子様のご家庭での言語教育のことも読んだことがある。

 

小和田家では母国語をきちんと習得することを基本に外国語を学んだと。

母国語で、その文化で物事を考えることができること、母国の文化がきちんと身についていないと

表現が確かではないかもしれないけれど、流浪の民、宙ぶらりんの文化の中でそだつことになると

そうならない教育を心掛けられたと聞く。

 

だから、母国語の文化である書道などもきちんと学ばれている。

敬宮愛子さまが習字をされている画像なども流石天皇家の教育と、筆の握り方、姿勢などにも

素晴らしいものを見せて頂いたと感じたものです。

 

日本にいて、外国語が操れると何か能力が高いように受け取られることはままあります。

 

しかし、私も、おこがましいですが西村先生が懸念される点をバイリンガルで育つお子様に

感じていました。

 

我が子が海外で生まれ、そこの言語が母国語になった時、親はその言語の深いところまで

理解できない。

何かの時に、日本語の四文字熟語、言い習わし、などを駆使して教えたくても伝えられない無念さなどを

感じることになるだろうと思う。

 

私なら、子供とのコミュニケーションをどのように取るのだろうか?

 

そんなことを考えながら、海外の言語の中で育つ子供を持つ場合のことを考えていた。

 

西村先生の表現される「セミリンガル」が、私の危惧したところに、的を射たご意見として

突きささったのです。真顔

 

言語スキルが日常レベルから知的レベルへ飛躍する教育を日本で受けられたことは

言語の部分を入れ替えることによって知的レベルは維持できるのです。

そう思うと、やはり私が子供の言語のことで危惧したことは当然のことだったのだと

安心しました。

 

言語教育は、ただ他言語の中に放り込むことではない。

その裏には、

「親は常に知的レベルの高い会話をするよう心がける必要があるという。」

西村先生の見解が必要となるのだと納得できました。

 

私達は日本の教育システムの中で日本語を使っての授業の中で日常レベルから知的レベルへの

飛躍をしっかりと身に付けていたのですね。

 

今や、知的レベルで考えることによって、他言語でも即変換して表現できる時代です。

 

「AI」や「チャットgpt」などによって、目的とする文章や資料まで作られる時代です。

作られた文章や資料の内容を精査することは最後は扱う人間の知的レベルが左右することだと

思います。ウインク