それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

”ちょっと休憩「氷イチゴは 紅い唇」”

ジャスミン真理子さん、あまりの懐かしさにリブログさせて頂きます。

以下引用部分です。

 

わたしと おともだちは バス通りにある

蕎麦屋さんまで 走ってって 

氷イチゴをみっつ 注文してくる

 

あの頃 もう少し先の 角の洗濯屋さんでも

かき氷を 売っていた

 

この店は 洗濯屋さんの他に

冬は 焼き芋屋さん 

夏は かき氷とキャンディーを 店先で売っている

 

すこし経つと お蕎麦屋の おかみさんが

かき氷の入った 岡持ちを下げて やって来る

 

以上引用

 

時代は、私の育った頃と同じなんです。ウインク

場所は遠く離れていた筈ですが、

私の生家の並びの角のお宅が氷屋さんだったので身近に感じました。

 

もうもう、懐かしくてその情景は今でも夏の強い陽射しと共に思い出されます。ニコニコ

 

そして、反対側の橋を渡った角にも焼き芋、アイスクリーム、アイスキャンデー

等を売るお店があって、そこでもかき氷を売っていたように記憶しています。

 

ただ、いつもは氷だけのお店で岡持ちに入れて配達してもらっていたように

思います。

それも、熱い夏の日に来てくれたお客さんがあった時が必ずだったようです。

 

”岡持ち”というワードに、すぐにその情景が浮かびました。ニコニコ

あの頃の夏の日のおもてなしだったんだと思います。

まだ冷蔵庫という家電はなかった時代。

 

(当時の岡持ちはこんな物だったと思う。この中にガラスの器のかき氷を並べて配達。)

 

冷蔵庫はあっても木製の上段に氷を置いてその冷気で冷すものだったし、

我が家はそれさえ手に入れたのはもっと後のことだった。

 

(画像にように上段は氷屋さんが配達してくれた氷の場所。

家の前で大きな氷をシャキシャキと切り分けていた音が涼やかだった。)

 

だから、冷蔵庫の形にはなってなかったが、内側がブリキで外側が木製の

箱に氷を入れて冷やしていたようです。

 

西瓜やトマトや梨などはバケツやたらいに水を張って冷していたように

思います。

 

何から何まで昭和レトロの懐かしさです。ニヤニヤ

 

子供の頃は何軒か先というのは結構遠い家だと思っていたのが、

今行ってみると、(勿論その家は既に無い。ここだった?と言う感覚。)

ササッと歩ける距離だったりする。

ありますよね?

 

あの頃、物心ついて、自分の家とよその家の区別がついて、

どの家も何かしらの商いをしているか、地元の漁業従事者かと言う家が多かった。

我が家のように父は生家の生業とは別に国営企業に勤め、通勤している家は珍しかった。

 

家がどうあれ、私は地道に毎日商いをしている商家が並ぶ地域で育った。

 

かき氷屋さん、焼き芋屋さん、たばこ屋さん、時計の修理屋さん、布団屋さん、

畳屋さん、織物屋さん、左官職人さん、お菓子製造業及び販売業さん、せんべい卸屋さん、

佃煮屋さん、酒屋さん、そして船元(遠洋漁業の船を持っているお家)、と今考えれば、

居ながらにして社会見学となるような家が並んでいた。ウインク

 

その中で当時一番羨ましかったのが”お菓子屋さん”の子供だった。爆  笑

今でも顔も名前も思い出す。

数年前地域を訪ねたら、そのお菓子屋さんはまだあったけれど、当時の

印象よりこじんまりとした製菓屋さんだった。キョロキョロ

 

そんな中の氷屋さん、駄菓子屋さん、焼き芋屋さんなどは、もしかしたら戦後、主が帰らなかった家で、遺された奥さんが出来る範囲の商いとして営んでいたのかもしれないと思うような

造りとおばさんのお店だった。

 

私はそこの地域の人達が毎日毎日変わることなく、商いをしていたことを

普通の光景としていたが、近所のおじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃん、

みんなをどこの家の人で、どんな家族構成かまで知っていた。

 

どこの家も鍵など掛かっていないで、出入り自由、いろんな友達の家で遊んだ。

その中で我が家は一番子供が集まって遊んだ家だったかもしれない。ニヤニヤ

 

かき氷から思い出はどんどん蘇ってくる。笑い泣き

 

高度経済成長期に入る前、日本国民は一生懸命働いていた時代の頃の

懐かしい「かき氷の配達事情」でした。

 

ああ、懐かしい~~!

 

ジャスミン真理子さん、思い出の記事ありがとうございました。ニコニコ