人間の土台(基礎)は子供時代に....。
確か、19日(火)だったと思う。
NHKの「プロフェッショナル」を見た。
依存症、アルコール、薬物などからの社会復帰を助ける施設の代表を勤める方でした。
依存症の克服を支援する男 栗原 豊に密着 - NHK
子供の頃家は貧しくてもらわれた家での辛い経験、草取りなどは叩かれてやらされた。
学校が救いの場。
だから勉強したが、高校には行けなかった。
そこからは不良グループに入り、結局暴力団に入り、薬も覚えていった。
60歳になるまで、刑務所を出たり入ったりで合計20年に渡り刑務所生活をした。
60歳の時も刑務所に入る直前まで行ったが、その時の検事さんが、
「お前はダルクに行け。」
と、決断してくれたそうだ。
それから、薬物から抜けるための仲間と出会い、その中でも段々管理する方になり、
自分の経験を生かしてアルコール、薬物依存で苦しんでいる人を受け入れる施設を立ち上げて今に至っている。
現在78歳、いつからでも自分を変えることはできると、自分の経験から施設の代表を務めている。
実際、彼には入れ墨もあるようだし、左手の小指の先はなかった。
過去の彼の姿が現実にあった。
しかし、現在の彼は温厚なおじさんという風情そのものだ。
今は依存症から抜け出せた人の居場所を作るために農園、食堂など、働く場所を次々と立ち上げている。
そして、そういう施設の管理を元施設入所者に任せて次々に自立できるように援助もしている。
元同じ入所者であった今の奥さんとの生活も彼には生きる拠り所となっている。
普通の家庭の姿があった。
凄いのは、
入所者で結局家族とも別れ独りで亡くなっていった人達を最期まで面倒を見て、
葬儀を執り行い、墓に収めるところまでやり遂げておられることだった。
この施設が依存症から抜けるための最期の場所だと頼ってきた人達を最期まで捨てない姿だった。
依存症から立ち直って、元の家族に会いたい人がいれば、元の家族との橋渡しなどにも奔走し、どこへでも行く。
刑務所から仮出所する者がいれば、迎える人がいない場合は、そこまで迎えに行く。
自分は何も仕事していないと言うが、どれだけ不安な人達の支えになっているか。
それは、彼が過去自分も同じ思いだったからだろう。
そして、今は既に亡くなっている転機を与えてくれた検事さんの遺影に会いに行く。
その時手を合わせた左手の小指の先も隠そうとはしていなかった。
今回の番組を見て、社会のネットワークからこうして零れ落ちてしまう人は今でも相当数存在するということだ。
そうなってしまった人達の原因は様々だ。
みんな生まれた時は無垢な赤ん坊。
けれど、夫々に与えられる環境は全く違うのだ。
天と地かもしれない。
彼の場合は子供時代が悲惨だった。
優しく可愛がられる環境ではなかった。
勉強も好きなだけできる環境だったら、過去の彼の体験にはならなかったかもしれない。
いつも、思うのだ。
人間を、親を、育てられた環境を、何の疑いもなく多少の過不足はあっても、ごくごく普通に過ごせる場所と信じて生活できたら、そんな幸せなことはないんだと。
しかし、子供の時代、人間の基礎を作る時代を、全ての子供が受けられるわけでもない現実はあるんだと知る。
彼の育った時代は、ビックリするほど昔の日本でもない。
1942年生まれは物心ついた頃は戦後立派に日本は立ち直っていた時代だ。
ただ、世間の格差はあっただろうが。
その格差こそ、子供の成育に差を生じさせる時期なのだろう。
今だって、子供への虐待事件などは実際にある。
一方では、世界に羽ばたく程の高度な教育を施される子供もいる。
どちらも人間形成の大事な時期に受けることなのだ。
大人になって、一家を持って、家族を持って、孫を持って、終活を考える頃になって、普通に親を疑うことも無く、子供らしく、少女らしく、思春期もそれなりに、学校にも行き、沢山の友人に会い、社会の一員として生活出来ていることは、本当は凄く恵まれていることなんだったと思う。
両親、祖父母に感謝しかない。
遡って考えると、普段の生活の一コマ一コマがはっきりと蘇ってきて、
それらが全部自分を作ってくれていたことなんだと思う。
子供時代を振り返ると楽しい事ばかりが思い出される。
「ねえ、ねえ、聞いて、こんなだったよ!」
と、話したいことばかりで、隠したいことなど、思い出したくないことなど一つもない。
自己肯定感を脅かすことなど何もない。
それが、幸せだったと思う。
だから、その逆を経験しなければならなかった子供時代を過ごすことが
どんなに、人間形成を脅かしたかと想像に難くない。
大事なのは子供時代だと、全く個人の意見だけれど、確信する。
しかし、成人してからは生き方は本人次第だ。
「何歳からでもいい。いつからでもやり直せる。」
につきると、思います。