アナザースト━リ━ズ「マンデラと”ゆるし”」
マンデラの許し。
たまたま朝の再放送で出会い、急遽録画した。
南アのアパルトヘイト問題はニュースや映画で知っていたことだし、他の映画でも観ていました。
しかし、こうして当時のことをじっくりと知る機会はなかった。
映画を観れば虐げられた黒人たちの怒りに感情移入したりもした。
27年間投獄された理由や、彼が当時ボクサーだったことも知り、短気ですぐに切れる人間だったことも意外だった。
しかし、27年間の獄中生活の中でいろんな国のリーダーの歴史本などを読み、どんな間違いを犯したかなどについてよく勉強していたことも知った。
自伝の完成を手伝った作家が見せてくれた手紙があった。
投獄前の荒っぽい筆跡と釈放後の筆跡の違い、書きなぐりでなく、よく考えてまとめてある
手紙に彼の変化を証明していた。
”許し”に納得できないでいた黒人が言った。
「もし、白人のやったことを憎んだままで、許さないでいたら、今でも内戦状態でいる国と同じようになっていただろう。」
と、晴れやかな表情だった。
では、私達の生活の中では、憎い、許せない感情を生ませる人や事件などに遭遇して、
それを”許す”ことができるだろうか?
彼のように時間をかければできるのか?
わからない・・・。
「ここからはモモちゃん、メッセージ届けてね!」
ただ、私がこのマンデラさんのことをまとめて考えてみたいと思ったのは、ある一人のブロガーさんのこれまでの生涯を知ることになったからです。
彼女がこれまで味わってきた痛みと恐怖と苦しみを記事にされていたからです。
勇気が必要だったと思います。
人の人生、私の人生も含めて、生まれる場所も、親も、環境も選べない。
そんな中でどう生き、どう人格を育むのか、気付く間も無く人生は進み、過ぎて行く。
私は、幸不幸を単純に決めることだけはしないでおきたいと思うのです。
それは今何歳であっても誰にも未来があるからです。
何だか青臭い言葉ですよね。
でも、結論は、”息を引き取るまで結果はわからない”ということだからです。
現実を見ていると、成功者と思われていた人の晩年の悲惨な状態だったり、人を大事にしていた人の豊かな終焉だったりと・・・。
先に逝った方々の人生、先を歩んでいる方々の変化を見せてもらっているからです。
過去は自分を育ててくれた土壌や水や光、今からそこに蒔く種は自分で選び、自分で
育てられる時間がある。
だとしたら希望が湧いてきませんか?
自分の好きな花を咲かせるのは、これからの自分次第だなって思えてくる。
どんな栄養与えようかって、しなくちゃいけないことが一杯できてワクワクしてきますよ~!
今までが幸運だった人も、ちょっと不公平じゃない?と不運だった人も、その中の全部なのか、一部だけなのか残したいものは選んで、自分の最期の日(大袈裟?)までをイメージ
して歩き出したくなりませんか?
今の所私は人生の3/4くらいを生きて残りの方が少ないかな?
コロナなんかのとんでもない事態なんかにも遭遇することなんて考えてもみなかったのに、
これからの世に中でまだ生きていかなきゃいけないんですものね?
でも!先は分からない、生きてること自体凄いことじゃない?
いろんな味を味わってみましょうよ!
以下引用。
TVで。
選「マンデラと“ゆるし”〜アパルトヘイトとの闘い〜」
映画で。
公開2009/12/11
舞台は1994年の南アフリカ共和国。ネルソン・マンデラは反体制活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、1990年に釈放されこの年に同国初の黒人大統領となった。それまで政府の主要ポストを占めていた白人官僚たちは、マンデラが報復的な人事をするのではないかと恐れ、一部の者達はそれを見越して荷物をまとめ始めていた。それに対しマンデラは、初登庁の日に職員たちを集めて「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカを作るために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」と呼びかけた。安堵した職員たちはマンデラのもとで働くこととなり、ボディーガードチームも予想に反して黒人と白人の混成チームとなった[2]。
一方、南アフリカ代表のラグビーチーム「スプリングボクス」は当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況だった。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツだった。政府内では「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を求める意見が多数を占めており、一時はその方向で決まりかけていた。しかしマンデラはこのチームが南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になると考え、チーム名とユニフォームの存続を求め周囲を説得し[3]、一方でチームの主将フランソワ・ピナールを茶会に招いて言葉を交わし、励ました。
その後スプリングボクスのメンバーたちは、マンデラの意向で貧困地区の黒人の子どもたちにラグビーの指導に赴く。当初それを不満に感じていたメンバー達も、一連の地道な活動により、国民のあいだでチームの人気が少しずつ高まり、自分たちの存在が国内のみならず世界的に注目されていることを知るに至った。
そしてスプリングボクスは、自国開催の1995年ラグビーワールドカップにおいて予想外の快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たす。今や新生南アフリカの象徴として見られるようになったスプリングボクスは、全南アフリカ国民が見守る中、強豪ニュージーランド代表オールブラックスとの決勝戦に臨む…。
前略、
「チームカラーと愛称はアパルトヘイトの象徴である」との認識による変更を全会一致で決定するシーンがある。そのときマンデラが登場し、黒人代表者たちに盛大に迎え入れられるのだが、マンデラは「今まで我々は白人たちに脅かされた。しかし我々は白人たちを協力する寛容の心で迎えるのだ」と会議参加者との意見の差異あるスピーチを行い、変更を阻止した。
上記引用
|