それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

泣いた・・。「アンという名の少女3」最終回。

寂しい・・・。

「来年は1900年になるのよ。」

と、言う台詞がある時代のドラマ。

 

日本では明治時代ということを頭に置いて当時のカナダの生活、考え方

を興味深く観ていた。ニコニコ

 

最終話のあらすじは以下に引用しましたが、とに角、「行き違い」が

そこここにあってハラハラさせられた。えー

 

しかし、アンとギルバートもお互いの気持ちを理解し合って、これからの勉学

の日々に飛び立つ。

 

私が一番感動したのは、アンの出生の空白が埋められたことだった。

 

どんなに今愛してくれる人がいても「ルーツ」がわからないということが

どれだけ辛い事なのか共感していた。

 

「お母さんは教師だった。お母さんの字は私の字に似ている。私はお母さんに

似ているんだ。」

と、鏡に向かうアン。

 

マリラとマシューは、

「あなたが私達の元にきてくれたことが嬉しい。」

と、言う。

 

私は、ウルウルときていた。

 

この先の第4話が制作されていないのは残念だ。

 

それに、ミクマク族の「文化的虐殺」の事について、カクウェットちゃんのその後が描かれていないで終わってしまったのも残念だ。

 

しかし「引用部分」にそのことについてのカナダ政府の見解が説明されている。

 

しかし、

「これはまさに『アンという名の少女』のアンがずっと戦いつづてきた「差別的な考え方」だ。」

と、言う部分をいつも感じながら観ていた私の感覚を説明してくれたように思う。

 

何度も言うが、

「日本の明治時代のカナダでの人々の考え方と生活。」

が描かれていたのだ。

 

追記:

ジム仲間の女性もこのシリーズが好きで、小さなころから全て読んだ人だ。

彼女と、

「今回のアン観た?」

と、話が弾むのも楽しみだった。

彼女も、これで最終話になってしまうことを残念がっていたのは勿論だ。悲しい

 

 

 

 

以下引用

 

カクウェットちゃんは!? シーズン4は?

だが、われわれは画面に向かってツッコまざるを得ない。 カクウェットちゃんは!? シーズン3は、ギルバートとアンの恋だけでなく、ミクマク族の「文化的虐殺」が描かれた。ミクマク族の子供たちが、カナダ政府によって、強制的に寄宿学校に入れられた。先住民族の文化を「野蛮」だと決めつけ、矯正しようとしたのだ。 アンと仲よくなったミクマク族の少女カクウェットは、虐待がまかり通る寄宿学校から抜け出してくるが、再びカナダ政府の役人によって連れ去られる。 アンとマシュー、カクウェットの両親は、取り返しに行くが、寄宿学校側は、返してくれないどころか、会わせてもくれない。カクウェットは、暗く小さい部屋に監禁され、泣いている。 これは、歴史上の事実に基づく。 カナダの初代首相ジョン・A・マクドナルド卿は、この計画を国会議員にこう説明している。 〈学校が居留地にあれば、子どもは野蛮な両親とともに暮らし続ける。子どもは野蛮人に囲まれており、読み書きはできるようになるかもしれないが、習慣や躾、考え方はインディアンのままだ。読み書きができるただの野蛮人であり続ける。インディアン省のトップとして私が強く主張したいのは、インディアンの子どもたちを親の影響から可能な限り遠ざけるべきであり、そのための唯一の方法は、白人の習慣や考え方を身につけさせるために、訓練中心の工業学校に入れることである。〉(『命を落とした七つの羽根』タニヤ・タラガ 著/村上佳代 訳/青土社) これはまさに『アンという名の少女』のアンがずっと戦いつづてきた「差別的な考え方」だ。 シーズン4が制作されていたら、どうなっていただろうか。 原作『赤毛のアン』シリーズ『アンの愛情』のラストで、ギルバートはアンにプロポーズする。 つづく『風柳荘のアン』はふたりの婚約時代の1冊で、アンがギルバートに送る手紙で構成されている。これは、まさにドラマのシーズン3のつづきにぴったりなシチュエーションだ。 アンが送る手紙の出来事がドラマとして展開する内容になったのではないだろうか。そこで、カクウェットの問題にも立ち向かうアンが描かれたのではないかと想像する。 『アンという名の少女』が最後まで制作されず、打ち切りになったことはとても残念だ。 原題:Anne with an “E” 制作:2017年 カナダ 原作:L・M・モンゴメリ 製作総指揮:モイラ・ウォリー=ベケット

 

上記引用