「太宰治とタケの映像から。(1)」の続きです。
私は、「時間」を残す映像がどんなに貴重かと、常々思っている。
この記事を書きたいと思った一番の気持ちは、この映像のことなのだ。
太宰治のことは詳しく知られている。
しかし、彼の故郷を思う気持ちの根底にあるものが、こんなに普通の温もりを求めるものだったと
わかる、現実的な映像は、時間を止めなければ残らなかっただろう。
画面の隅に映っているのが撮影者の柳沢さん。
ウィキペディアにはこんな映像までは載っていない。
最後年のたけだったと推測するが、太宰治の歴史の中でどんなに貴重なものか、
彼が「平和」という言葉で表している人なのだ。
私は日々、いろんな場面で取り敢えず映像、写真に残すことにこだわっている。
近しい人ならばボイスレコーダーでもいい、動画であればもっといいだろう。
その人が存在したということが残るのだ。
撮るのが得意な人がいると、その周りの映像は残る。
けれど、お互いに撮りたいものだ。
私は、亡くなった母の声も残すことができた。普段の話し方を再生できる。
母の「遺影」は母が後年でも一番綺麗な写真を選んだ。
お洒落だった母はこれを一番喜んでくれたと思う。
普段からカメラを用意して撮っていたからだ。
何故か「遺影」が、いかにも集合写真を引き伸ばしたようなものと分かるような「取り敢えず」の
ような写真であることがある。
何故、普段から「人」を見つめないのかと思っていた。
特に、娘が母親の「遺影」を適当に扱っている葬儀に出会った時、娘の暮らし方の意識に
首を傾げたくなる時がある。
(近しい人の葬儀だったので、怒りに近いものが湧いてきたことがある。)
丁度一年前の今頃、向田邦子さんの記事を書いている。
彼女の恋人はカメラマンであったので、彼女が本当に輝いている時期に、いろんなポーズ
で、彼女の一番綺麗な角度を撮っていたのだ。
だから、お洒落にこだわりを持っていた彼女は本当に美しい。
そこが、凄く羨ましいのです。
「一日でも若い日、あるいは記念の日、そして普段の日」の自分自身をももっと撮っておきましょうというのが、
今回の本題なのです。
あるがままの姿が最高だと思います。
たけさんの映像を見て、それが「あった場合」と「ない場合」では、
”プレミアムカフェ選 生誕100年 太宰治と故郷「津軽」”という番組の奥行も違ったのではないかと思います。
これからも、周りの日常の映像を大事にしていくつもりです。