それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

旅立ったトマトちゃん。

毎朝猫の散歩をする。

朝の時間帯はご近所ワンコも散歩するので何匹かとはよく会って、挨拶したり、遊んだりする。

 

猫というのは我が家だけで、殆どはワンコだ。

その中の二匹で、親子で散歩しているジャックラッセルテリアがいる。

運動量が多くて、歩く速度も速いように見える小型犬で、大好きな犬種だ。

 

元々、飼い主さんとも知り合いなので、会えば必ずお喋りする。

いつも、二匹の運動量に負けない体力で、引っ張って(引っ張られて?)散歩している。

 

そのワンコが一匹で飼い主さんといる。

「ん?今日は一匹なの?」

と、聞いてしまった。

 

飼い主の彼女が人指指を空に向かってポーズした。

「行っちゃったの」

「ん?どこへ?」

「旅立ったの・・・」

「亡くなった?」

「そう・・・。」

と、何となく元気のない様子で答えた。

「11月の1日・・・」

 

あったのは5日だったから、

「え?つい最近じゃない!」

と驚いた。

 

親子の親の方が残ったのだそうで、急性の膵臓がんだったとのこと。

亡くなる前の数日は自宅でずっと添い寝したそうだ。

まだ飼い始めた頃撮らせてもらった一枚の、「トマト」ちゃん。

子供が亡くなってからの親は、ずっと匂いを嗅ぎまくっているんだそう。

親が12歳、子供は10歳で、順序としては親が亡くなった後も一匹は残ってくれるつもりで2匹を飼っていたということで、逆になるとは思っていなかったと話してくれた。

 

亡くなってから、まだ日が浅いので彼女も気丈にしているけれど、親犬と共に元気でいてくれるといいなと心配している。

いつもこんな感じで散歩していた。

 

ペットは元気でいるのが当たり前のように思っているけれど、突然こんな風に亡くなってしまうことがあるのだ、と再認識した。

 

我が家の猫も17歳になった。

家猫の寿命は20年にも達しているとは言え、後何年一緒にいれるのかと考えるとよそ事ではない。

日々、一緒に居れることに感謝して、その時間を大切にしようと、改めて思っている。

 

トマトちゃんのご冥福をお祈りします。逢えてよかった・・・。

 

 

   

 

重なる時ってあるものだ。

午後姉の家に行った。

実姉だけれど、車では10分程の家だけれど、用事が無ければ行かない。

ベタベタしてない、姉妹だ。

 

夕飯が終わって、財布のレシートを片付けながら、家計簿でも、つけようかと用意していたら、

久し振りに息子が突然来た。

調整休暇だという。

 

お茶を飲みながらいろんな話をする。

よく喋る。

お互いよく喋る。

離れていた時間が埋まる程、普段の様子がわかる。

その間、準備していた家計簿はお預けだ。

 

そして、息子が明日は仕事だと言って帰ると、今度はその兄貴が電話してきた。

休みの前日で昨晩弟と会ったらしい。

 

そんなで、話の内容は重なることもあったが、二人ともの話の内容はほぼ同じで、理解しやすかった。

兄貴は他の件で電話してきたのだが、昨夜のことなので両方から聞くことに、たまたまなった。

 

またまた、家計簿はお預けのまま、話は続く。

彼もまたよく喋る。

私も、友達との時よりも、もっとストレートに喋れるかもしれない程話ができる。

電話は長引いて、風呂上りだったので洗顔後のケアーをした?してない?と判断ができない位だった。

 

各人の差はあるが、思春期、反抗期には今のようには話していない。

今は、普通は携帯同士だが、たまたま固定電話で、父親が電話に出ても、母親にと指名してくる

のが彼等なのだ。

それも、各家庭の個性だろう。

 

今は、彼等のパートナーたちの女心の機微も推測したりできる。

私自身がベタベタした関係よりも、お互いに自立した関係でいたい方なので男子との

関係はさっぱりしていて私に合っていて、普段は連絡などなくて丁度いい彼等との距離感だ。

 

それが、まとめてやってきて、彼等の近況を知り、大人になってこんな話ができるようになって、

嬉しいし、楽しいけれど、テーブルに準備してあった家計簿には手がつけられなくて就寝時間となった

「重なる日」だったのだ。

 

家計簿を片付けながら、

今夜の顛末に笑ってしまったが、笑顔に種類があるならば「ほっこり」なんだろうな。

「彼等も大人になったな・・・。」

 

 

 

 

 

「柿の木」のその後。

工事の日取りは確実にやってきた。

 

切られてしまう「柿の木」を見たくなかったので、工事の音だけに耳を傾けていた。

後で行ってみた。

      

 before      

 

 

    after

もう、あの元気な「柿の木」はなかった。

 

全く関係のない人に、この話をしてみた。

スマホの画像も見せて。

「勿体ないね。根っこを保護して家ができてから移植はできなかったのかしらね?」

と、言っていた。

 

スペースの問題もあるけれど、我が家も現在地に移転した時、以前の家の庭に植わっていた「柘植」の木が

20本程あったので、全ては移植できなかったけれど、一部半数程を現在地に移植してもらった経緯がある。

 

くどいようだが、「実」の成る木というのが、本当に惜しい。

「今までの時間」が惜しい。

 

 

     

 

                                           

一人称童話。「桃太郎」「シンデレラ」「浦島太郎」

高陵社書店の社長さんのブログ。↓

http://koryosha.co.jp/president/1076/

以下、

高陵社書店の社長さんのブログより引用。

 

「1人称童話シリーズ」が2018年度グッドデザイン賞ベスト100に選ばれる

 

弊社が昨年刊行した「1人称童話シリーズ」(「桃太郎が語る桃太郎」「シンデレラが語るシンデレラ」「浦島太郎が語る浦島太郎」)が、みごと2018年度のグッドデザイン賞のベスト100に選ばれました。

審査員からは次のようなお言葉をいただきました。

 

「読書を通した新しい体験が未だ残されていたとは大きな発見だろう。誰もが知っている童話が一人称になるだけで、子どもたちが他者を想像する背中を押し、読み聞かせをする大人にも新しい視点を生み出していくことに評価が集まった。なりきることはごっこ遊びの定番だが、静かになりきれる「一人称童話」シリーズは、ごっこ学習という新機軸なのではないだろうか。今後の展開にも期待したい」

上記引用

 

2018.01.12

1月13日に日テレ「世界一受けたい授業」で「桃太郎が語る桃太郎」を紹介!!


という記事もありました。

そして2018/10/04にグッドデザイン賞ベスト100に選ばれたわけです。

私はこの10か月の間知りませんでした。

 

今頃になって、

「へえ~、一人称っていう切り口はおもしろいな~。」

なんて気づいてる人間です。

 

そう言えば、絵本はお母さんに読んでもらって想像するのが当たり前みたいに思ってました。

でも、子供たちは自分で絵本を開いて読むこともあるんですよね。

そうすると、この一人称で、読むって自分が主人公になれるってこと。

そうしたら、画面の中で起こっていることがリアルタイムで自分のこととして感じられるだろう。


だから、本の最後にはこう書かれているらしい。

「もし、君が桃太郎だったらどうする?」

のように。

シンデレラについても、浦島太郎についても、そう問われているという。

 

私はゲームについて詳しくないのですが、ゲームの世界では一人称ゲームというのは既に当たり前のようです。

三者でいることと、当事者になることには大きな違いがあるのだろうとは思います。

 

「一人称視点/三人称視点のメリット・デメリット 」  について書かれたブログを紹介します。      

ファーストパーソン・シューター(英:First Person shooter、略称FPS)と呼ぶゲームだそうです。

http://sonykichi.hatenablog.com/entry/2017/07/10/073000

 

これら全てはゲームについて疎い自分のために記録しておきたいと思ったものです。

私にとっては”別世界”のことなので、大いに勉強させてもらいます。

何だか、凄い!

 

 

切られてしまう、「柿の木」

11月4日(日)現在の柿の木。


今年は当たり年で、実をいっぱいつけたのだそうです。

我が家でもお裾分けを頂いた。種有りだけど、歯ごたえがあって甘くて、素朴で、私の好きな柿だった。

 

この柿の木を明日の5日(月)に切ってしまうということだ。

こうして幹もしっかりしていて何の問題もない。

 

理由は、このお宅は解体されて、建て替えるのだそう。

そのお話を聞いて、何とも悲しくなって、幹をさすって、

「お疲れ様でした。さようなら・・・。」

と、お別れを言ってきた。

 

今回の解体は、二世帯住宅に建て替えるためなので、駐車スペースをとるために致し方ないのかもしれない。

心の中では、よそ様のお宅の事情なのに、寂しく悲しく思ってしまっている。

どこかに移植はできないのか・・・、などと。

 

改めてこうして幹に向かい合うと、柿の木の無念さが伝わってくるように感じる。

明日は、チェーンソーで、一気に、工事の過程の一つとして扱われてしまうのだ。

 

これが、本当に、本当に最期の姿なんです。

 

今年、みごとに沢山実を付けてくれて、私も頂きました。

それも、”縁”だったのでしょう。

今まで、ありがとう、さようなら。

 

 

 

 

10月から11月へ。

ジムからの帰り、夕空が奇麗だった。

 

どこかに車を止めて、刻々と変わる空を撮りたい、と思っているうちにどんどん夕景は変化してしまう。

「ああ、もうここしかない・・。」

と、焦るように車を止めた。

10月30日午後5時前。

 

朝陽も夕陽も、真上ではなく、下から上へ、上から下へ、と太陽が移動していく時間帯の雲に惹かれる。

雲の一塊、一塊が立体的に厚みを持って見えるからだ。

 

今日だけの雲、絶対に二度と同じ雲には出会えない、そんな奇跡のような一刻、一刻に感動する。

 

そして、10月31日、朝陽、東の空。

まだ、太陽は雲の下。

この雲も太陽に照らされれば、消えていってしまうのか。

 

朝だけの雄大な景色に見とれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大道芸」始まりました~!

今年も、静岡にて「大道芸ワールドカップin Shizuoka」が始まりました。

今年で27回目、11月1日(木)から4日(日)までの4日間、初日は秋らしいお天気で、

あちこちに大勢の人だかりができていました。

 

会場のあちこちにいて盛り上げてくれるクラウンさん達、ボランティアさんです。

次のパフォーマンスを30分くらい前から待つ観客たち。

座る人は前列、椅子の人はその後ろ、とボランティアさん達が整理してくれてます。

最前列はパフォーマーが演技途中で引っ張り出して、うまくいじるので、それを楽しみに座る人が増えてるんです。

台湾からのパフォーマー

 

 

陽も落ちて、ナイトショーの開場(市民文化会館)までの間に近くでのパフォーマンスを観ることができた。

 

「idio2」の二人は、演技にのりのりになる幼稚園児を巻き込んで、巻き込まれているなんて思っていない自由な

子供たちの反応を、観客と一緒に一喜一憂して一緒に盛り上げてくれた。

そういう、ハプニングだらけのパフォーマンスが観客を虜にする。

彼等の帽子の演技はスピード感抜群で見応えありました!

中国の雑技団出身のパフォーマーは、一瞬にして「お面」が変化する技を見せてくれた。

 

午後7時から始まった「プレミアム ナイトショー」(有料・事前にチケット購入・当日券も有り)

では海外からのパフォーマーがステージで、人間技と思えないような演技を次々に披露してくれた。

 

夕方になると急に冷え込むこの時期にダウンジャケットを着始めるのが恒例になって、

寒さ対策をして、でも、寒さも忘れて観客が一体になって拍手でリズムをとって、笑いが一杯で、

「ワオー!」とか「ホー!」とか「すごーい!」とか驚きの連続の時間を過ごすのは、本当に楽しい。

 

今年も「大道芸」を開催してくれてありがとう!

パフォーマーに「投げ銭」を入れる時、

「来年も来て下さいね!」

と、伝えると、了解!の表情で大きな笑顔を返してくれた。