「第28回大道芸ワールドカップin静岡」最終日。
新聞のコラム欄に以下の記事を見つけた。
2019/11/04 付。
▼きのう、駿府城公園や中心街は笑顔や手拍子、拍手であふれていた。気鋭の若手にチャンスをと新設された部門にエントリーした大道芸人ハンドさん(東京)は17歳。初々しさをのぞかせながら、はしごの上でジャグリングをしたり、中国ごま4個を同時に操ってみせたりした。
▼小学1年のころから前回までは観衆の1人。何重にもなったきのうの観衆に「静岡で360度囲んでもらうのが夢でした」。そう言われて開催地市民がうれしくないはずはない。投げ銭を弾んだ人も少なくないのでは。
▼広辞苑で「大道芸」を引くと、2018年発行の第7版には〈大道で演ずる音楽・曲芸・奇術などの芸〉とある。これがW杯が始まったころの第4版には〈大道で演ずる卑俗な芸〉と。この修正に、静岡で定着した大道芸W杯も寄与したと思いたい。
▼「卑」はもともと小さい匙[さじ]を手にした形を表し、大きい匙を持ったのが「卓」という(「常用字解」)。卑俗とは用字がきついが、「身近な」「大衆の」という意味だと理解すればよさそうだ。
▼大道芸W杯のパフォーマーを10年ほど前からアーティストと呼ぶようになったのは敬意を込めてのことという。ラグビーW杯で「リスペクト(尊重)」し合うことの大切さも教わった。アーティストと観衆の一体感が魅力の大道芸W杯に通じると思う。
以上引用
2018年発行の広辞苑7版では、「大道で演ずる音楽・曲芸・奇術などの芸」とあるが、
W杯が始まったころの第4版には「大道で演ずる卑俗な芸」と説明されていたとあった。
今年は28回目だという。
私は28年間一度も休むことなく「大道芸」に通った。
でも、最初の年から「卑俗な芸」?などと一瞬も感じたことはない。
「身近な」という意味と捉えれば、と説明されているが、彼等パフォーマーの息使い、足の先の汚れや脚に着いた埃も厭わずに演技に集中する姿を目の前にすると、芸に生きる彼等人生の一端に出会えた奇跡すら感じる。
海外ではちょっとした場所にふっと佇む大道芸人に出会えたりする。
普段の生活の中に大道芸人は浸透しているかのようだ。
そんな、日本に居たら出会えないような大道芸人が日本に、静岡に、向こうからやってきてくれるのだ。
スウェーデンで、フランスで、カナダで、ドイツで、スペインで、中国で、世界を回って、演じている人達が集合してくれるのだ。
だから、そんな貴重なパフォーマンスをひとつでも多く観たい。
「投げ銭」で感謝を表せば、物凄く高価な入場料も要らない、自由に、出会ったパフォーマンスを楽しめばいいのだ。
今年、特に感じたのは「多様性」だった。
28年間見続けて、自分の中の変化も感じた。
生き方は、本当に様々あるのだと、「一芸を磨き続ける人々」を見て思う。
そして、記事の中にもあったが、28年前には生まれていなかった、小学1年のころから前回までは観衆の1人だった17歳の青年が観衆に囲まれているのだ。
演技しているのだ。
人の人生を変えることもある「大道芸」なのだ。
笑って、驚いて、感動して、声を上げる、自然の感情を思いっきり、周りの観客と一緒
に発散できる時間こそ「大道芸」の醍醐味なのだと思う。
因みに、今年の優勝者は「クァトロストンプ」((カナダ、仏、米)組。
https://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/701524.html
今年も、ありがとう!