それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

もやもや?

月に一度の食事会をした。

「海老と蓮根入り里芋団子、白だし山葵葛あんかけ。」

外側はカラッ、中身はしっとりで出されると嬉しい。

 

 

元々エアロビをやっていた頃からの友人達と一緒だ。

 

始めた頃はこんな長く続けるとも思ってなかったが、主催していた社会保険センターが閉鎖して、

一般のスタジオに皆で移動し、そこからまた、民間のジムに移動し、といろんな事態が起こる

度に、現在の状態に落ち着くまで一緒に移動を繰り返した仲間だ。

 

移動の原因はやはり経営者?運営者の運命?(社会制度の変化)が変わる度に、それでも運営者

のレッスンを選んできたということになる。

 

実の所は皆、身体全体を音楽に合わせて動かしたいというのが本音なのだ。

けれど、2015年5月に運営者が、ある新設ジムの共同経営者になるということで、レッスンを辞めたので、

一旦エアロビから、そのジムに移った。

 

ただ、友人達は、

「筋肉をキープさせるのもいいけど、やっぱり身体全体を動かしたい、器械だけに向き合うのはつまらない」

と、時々吐露していたのも確かだ。

 

そして、それでもなんとか続けて3年が経った頃、ジム内部での共同経営?に問題が持ちあ上がり、

建築主(資本提供者)との間でシズテムが一掃され、新シズテムの中で移動組3人はどちらかを

選択する羽目になった。

 

長年の義理があって残れないと判断した者、資本提供者ではない運営者側に3ケ月分の

会費前納したため本意ではないが、新ジムに残れないと判断した者、そしてこれから先を

重視して資本提供者の建てたジムに残った私、と三者三様の判断をした私達3人。

 

しかし、お互いに判断を任せ、尊重し合ってそれぞれの判断には口を挟むことはなかった。

その居場所はそれぞれが決めた。そして今がある。

 

それからは、ここ一年間、それぞれが夫々の道で健康保持に努めている。

しかし、今まで続けてきた食事会はそのまま継続し、楽しみに、その時は以前と変わらず溜まったお喋りをする。

 

そんな、とてもいい関係は続いていると思う。

たまには、年に2回くらい私が行先を選んで、参加したい者は参加し、あちこちにバスの旅もしたりした。

 

私は基本独りでも、旅をするので、誰が手を挙げても、挙げなくても、結果同行したい、という人は

拒まないし、友人達の意志を尊重している。

 

細かいことは言わない、というお付き合いなんだろうと思う。

 

長く付き合うということは、お互いの距離感が必要だと思うので、束縛されるのもするのも、その距離感が

相互に過剰に入り込まない状態を維持しているのだと思う。

 

ただ、私は新ジムで、一年前より以上に回数を増やしてトレーニング(と言う程ではなく、健康維持を目的として)

しているつもりだ。

そして、周囲の、現在のジム仲間も、当時の彼女たちを知っているので、

「どうしてる?向こうで頑張ってる?こちらに戻ってこないの?」

と、好意的に時々声を掛けてくれる。

 

けれど、彼女たちの声は、

「器械だけじゃつまらない」

と、いうことが本音なのだ。

 

「つまらない」、

と、評されていることを、頑張っている人達の中で、彼等、彼女等の頑張りを見ている私は、

そこの部分の評価の低さに”もやもや”を感じてしまうのだ。

 

自分の場合も、その結果が出ているかと問われれば、返す言葉はない。

しかし、やらなかったことと、やったことの差は時間が答えを出してくれるのだと思っている。

 

筋肉とか、柔軟性などは目に見えるようになるには時間がかかると踏んでいるので、

だからこそ、皆さんコツコツとトレーニングしているのだ。

 

来年喜べるのか、10年先で、20年先で、

「あ~、続けていてよかったな~」

と、喜べるのかは分からない。

 

でも、きつくてダンベルを離した後、グッタリと下を向いている彼等を見ていると、

「そうまでして何で頑張るの?」

と、聞きたくなるほどだけれど、その時間、それを今やることが明日に繋がると彼等は

体験しているのだ。

体得したことがあるからなのだ。

 

実際に、彼等の豹変?振りを去年見た。

軽口をたたくわけでもなく(話しかければ笑顔で話してくれる)、もくもくとトレーニン

する人達には、それなりの「哲学」があるのだと感じている。

 

「器械」に無機質なつまらなさを感じるのか、「器械」を使いこなすのか、そこまで行くために

何を越えるのか、私は、独りでも感じてみたいと思い始めているようだ。

 

だから、「つまらない」だけの場所にいる彼女たちに、モヤモヤした割り切れなさを感じたのだろう。

 

ただ、人にはそれぞれの環境があるので、その中での彼女たちの生き方は認めている。

逆に、私には

「あなたは、独りでもやるし、行くしね~。」

と、言ってどうなるものではないだろうと、半ば諦めて放任されているのだろうと推測している。

 

追伸:

「もやもや」の正体がもやもやだったのに、こうして記事にしようと文章にしている内に、

それが何だったのか分かってきました。

この場所があったことに感謝です。

長文にお付き合い下さった方、ありがとうございました。

 

 

 

 

月に一度の食事会をした。

「海老と蓮根入り里芋団子、白だし山葵葛あんかけ。」

外側はカラッ、中身はしっとりで出されると嬉しい。

 

 

元々エアロビをやっていた頃からの友人達と一緒だ。

 

始めた頃はこんな長く続けるとも思ってなかったが、主催していた社会保険センターが閉鎖して、

一般のスタジオに皆で移動し、そこからまた、民間のジムに移動し、といろんな事態が起こる

度に、現在の状態に落ち着くまで一緒に移動を繰り返した仲間だ。

 

移動の原因はやはり経営者?運営者の運命?(社会制度の変化)が変わる度に、それでも運営者

のレッスンを選んできたということになる。

 

実の所は皆、身体全体を音楽に合わせて動かしたいというのが本音なのだ。

けれど、2015年5月に運営者が、ある新設ジムの共同経営者になるということで、レッスンを辞めたので、

一旦エアロビから、そのジムに移った。

 

ただ、友人達は、

「筋肉をキープさせるのもいいけど、やっぱり身体全体を動かしたい、器械だけに向き合うのはつまらない」

と、時々吐露していたのも確かだ。

 

そして、それでもなんとか続けて3年が経った頃、ジム内部での共同経営?に問題が持ちあ上がり、

建築主(資本提供者)との間でシズテムが一掃され、新シズテムの中で移動組3人はどちらかを

選択する羽目になった。

 

長年の義理があって残れないと判断した者、資本提供者ではない運営者側に3ケ月分の

会費前納したため本意ではないが、新ジムに残れないと判断した者、そしてこれから先を

重視して資本提供者の建てたジムに残った私、と三者三様の判断をした私達3人。

 

しかし、お互いに判断を任せ、尊重し合ってそれぞれの判断には口を挟むことはなかった。

その居場所はそれぞれが決めた。そして今がある。

 

それからは、ここ一年間、それぞれが夫々の道で健康保持に努めている。

しかし、今まで続けてきた食事会はそのまま継続し、楽しみに、その時は以前と変わらず溜まったお喋りをする。

 

そんな、とてもいい関係は続いていると思う。

たまには、年に2回くらい私が行先を選んで、参加したい者は参加し、あちこちにバスの旅もしたりした。

 

私は基本独りでも、旅をするので、誰が手を挙げても、挙げなくても、結果同行したい、という人は

拒まないし、友人達の意志を尊重している。

 

細かいことは言わない、というお付き合いなんだろうと思う。

 

長く付き合うということは、お互いの距離感が必要だと思うので、束縛されるのもするのも、その距離感が

相互に過剰に入り込まない状態を維持しているのだと思う。

 

ただ、私は新ジムで、一年前より以上に回数を増やしてトレーニング(と言う程ではなく、健康維持を目的として)

しているつもりだ。

そして、周囲の、現在のジム仲間も、当時の彼女たちを知っているので、

「どうしてる?向こうで頑張ってる?こちらに戻ってこないの?」

と、好意的に時々声を掛けてくれる。

 

けれど、彼女たちの声は、

「器械だけじゃつまらない」

と、いうことが本音なのだ。

 

「つまらない」、

と、評されていることを、頑張っている人達の中で、彼等、彼女等の頑張りを見ている私は、

そこの部分の評価の低さに”もやもや”を感じてしまうのだ。

 

自分の場合も、その結果が出ているかと問われれば、返す言葉はない。

しかし、やらなかったことと、やったことの差は時間が答えを出してくれるのだと思っている。

 

筋肉とか、柔軟性などは目に見えるようになるには時間がかかると踏んでいるので、

だからこそ、皆さんコツコツとトレーニングしているのだ。

 

来年喜べるのか、10年先で、20年先で、

「あ~、続けていてよかったな~」

と、喜べるのかは分からない。

 

でも、きつくてダンベルを離した後、グッタリと下を向いている彼等を見ていると、

「そうまでして何で頑張るの?」

と、聞きたくなるほどだけれど、その時間、それを今やることが明日に繋がると彼等は

体験しているのだ。

体得したことがあるからなのだ。

 

実際に、彼等の豹変?振りを去年見た。

軽口をたたくわけでもなく(話しかければ笑顔で話してくれる)、もくもくとトレーニン

する人達には、それなりの「哲学」があるのだと感じている。

 

「器械」に無機質なつまらなさを感じるのか、「器械」を使いこなすのか、そこまで行くために

何を越えるのか、私は、独りでも感じてみたいと思い始めているようだ。

 

だから、「つまらない」だけの場所にいる彼女たちに、モヤモヤした割り切れなさを感じたのだろう。

 

ただ、人にはそれぞれの環境があるので、その中での彼女たちの生き方は認めている。

逆に、私には

「あなたは、独りでもやるし、行くしね~。」

と、言ってどうなるものではないだろうと、半ば諦めて放任されているのだろうと推測している。

 

食事会後に、まだお喋りが足りなくてドリンクバーのあるファミレスに寄って、

またもや、

「もう、夕飯入らない~!」

と、贅沢な悲鳴をあげたのは先月と変わらない。

 

追伸:

「もやもや」の正体がもやもやだったのに、こうして記事にしようと文章にしている内に、

それが何だったのか分かってきました。

この場所があったことに感謝です。

長文にお付き合い下さった方、ありがとうございました。