アクションとリアクション。
最近「人」の一生について、よく考えるようになった。
若い頃は「生きるとは何か」なんて哲学的な本をかじったりして将来を夢のように考えたりしていた頃もあった。
頑張れば結果が付いて来るとか、目標を持ってそれに近づくようにしようなんて青臭いことを真面目に思ったりした。
それからウン十年。
祖父母、両親、叔父さん叔母さん、従兄弟、同級生、親友、等々が亡くなった。
「人」の一生の最期まで見せて頂いてきたということだ。
あの人の生き方、あんな生き方をした方の死に方、最期の様子などに接してきて、単純に
「人は誰でも死ぬんだ」と、普通に生きてきた人がいなくなることを実感し続けた。
自分の人生も残りの日々の方が少なくなっていることを意識する。
そんな中で感じることは、人生って意外なことが起こると思うことだ。
結構、上手く人生が回っていたと思われてきた人が、人生後半になってまさかと思うような病気になって苦しまれたり、前半、途中は上手く回らなかったが、後半にはその人には想像できなかった優秀な孫に恵まれたり、或いは資産形成が上手くてこれからそれを遣うのだろうと思われた人が一晩の内に亡くなられたり、といろいろある。
想像通り、思い通りにならない、びっくりするような、ドラマのような、いやそれ以上のことが起こるのが人生?と我が身、周囲を振り返ってしまう。
そんなことと、令和時代が始まって、平成時代をバッシングする内容が徐々に知られるようになっていることも頭をよぎる。
(主に皇室の問題ではあるが。)
そんなこんなを思っていると、デジタル時代にはない、時計の振り子が想いうかぶ。
我が家の壁には機械的にはデジタルだが、外装は昔のままの柱時計の代表だった振り子時計が毎日その振り子を振り続けている。
(当時のものはネジ巻式で振り子は連動して動いた筈。現在のは独立している。)
「アクションとリアクション」の繰り返しが、時間が刻まれて行くことを表現し続けている。
2018/08/04記事「電波時計が狂った」
正しいと思って行動したとして、そのアクションの反動として同じ位の揺れのリアクションが
起こる。
当然だ。
何だか、人生100として前半50後半50、前半の50の中には自己認識がない時期もある。
しかしだからと言ってそこだって含みたい。
生まれながらにして人間は平等ではないからだ。
ではその不平等は一生変わらないのかというと、マイナス分だけプラスとなってリアクション
されるような気もするのだ。
逆に、プラスが多い場合はその分マイナスとなってリアクションとなるのかも。
その時期は、そのキッカケということが人生の中で、どこかにあるのだろう。
自分はどう生きてきただろうか?どう生きているだろうか?
と、常に自省することが必要なのではないかと思うのです。
アクションしていることを考えていたならば、その反動、リアクションがどんなものなのか
想像できるように思うのです。
健康に留意していなければ、健康面でその結果がいずれ出るかもしれない。
自分本位で暮らしていれば、どこかに迷惑を掛けていたことが自分に跳ね返ってくるかもしれない。
よく、ブーメランとなって自分に戻ってくると表現されることもある。
人生上手く回っている時こそ有頂天にならず、その真意を考えたい。
いろんな人にお世話になっていて上手くいっているかもしれないし、日頃の行動が
幸運を運んでくれているのかもしれない。
運もあるだろう。
その運も、その前にしていた行動のリアクションであるかもしれない。
そんなことを考えていると、今起こっているいろんな問題の疑問が解けるような気がするのだ。
長いようで短い人生ウン十年なんてあっという間だ。
50の位置にいればもうリアクションを受ける位置なのだ。
辛く苦しく楽しいことなんかなかったという50までだったとしたら、それを耐えて、乗り越えて
生き抜いてきた知恵や体験が後半の50に生きてくることだろう。
体力がなくなっても、充実した気力は益々発揮できるのではないかと思う。
何も苦しいことも、辛いこともなかった50までだとしたら、その間に学ぶこともなく、体得したこともなく、体力が落ちていく中で工夫する技術もなく不満ばかり感じるかもしれない。
よく、自分だけ得をしたい、得をしたと喜ぶ人を見かける。
「本当に得なのかな?」
と、端から見ていた。
意地悪かもしれないが、そんな人のこれから先がどんななのか注目されるだろう。
一生を終わる時にしかわからないのかもしれないが、生き方死に方を見せてくれた人々
をも思い浮かべて、私は学びたいと思っている。
アクションにはリアクションがある。
そう考えると日々の些細な行動も大切に思えてくる。
人生は些細な出来事の積み重ねだと思うから。