それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

費やす時間がその人の仕事?

費やす時間がその人の仕事?
人それぞれ目に入ること、気になること、許容できること、できないことがある。

音楽を追究してきた人にとって何より重要なことは音の違いだろう。

プロの人達にわかって、普通の人に分からないことだろう。
しかし、音楽以外のことはあまり気にならない、無頓着だったりする。

 

女性の音楽家であって、主婦も兼ねているという人の日常を拝見して、思うこともあった。

「何かを一途に追及するということは何かを捨てなければできないことなのかもしれない。」と。

 

社会的に活躍する女性は数知れずいる。

それぞれの人がどんな生活をしているのかは、その家族がお互いに我が家はこんなものだと思って暮らしているものだと想像する。

 

ただ、何かに成功を収めるということは、女性でも男性でもそこにそれらの人の大部分の時間を費やすということだと思う。

時間と同時に意識もだろう。

 

楽家、芸術家、アスリート、建築家や技術者もそうだろう、「仕事」に意識と時間は集中するだろう。

 

だから、人の仕事とはその人が費やす時間で決まるのだろうと。

 

主婦中心の私は、あれこれと他のことにも時間は費やすが、それでも、主婦業の時間は一番長いと思う。

 

社会的には「○○家」と名乗れる職業の人は、他の「▽▽家」の足りている部分を見るものだろう。

しかし、「~~家」と名の付かない主婦から見ると、特に女性「○○家」の足りない部分が見えることを理解できるだろうか。

 

男性の「○○家」には奥様がバックで家庭を支えている場合が多い。

しかし、女性の場合はバックに「主夫」がいてくれることは稀なことだろう。

 

何故こんなことを言うのかというと、人の意識って”仕事”以外の所は低いものなんだと思うからだ。

 

人間は完璧ではないから当然なのだろう。

意識の凸凹。

 

凸が何であって、凹が何か、それの差異が大きければ大きい程、「○○家」は大成するのかもしれないし、差異が小さい程、並みに生活全般に意識が回るのかもしれない。

 

過去、現在も継続中であったりするが、私は「一芸に秀でる訓練をした人、仕事中心に生きた人」などに関わった時、彼、彼女らの足りない部分も見えて、どちらから見ても、同じようなことが言えるのではないかと、それぞれの生き方を認めればよいのだと、そんな時思ったのだ。

全くの個人的な意見ですが・・・。

 

草間彌生さん。芸術家としての一例。プライベート部分は存じ上げない。