イザベラ・バード「日本奥地紀行」
こんな旅がどうしてできたのか番組を見て驚いたが、詳しく調べると以下のような支援
がきっちりとあった。
それにしても、湿度が高く、貧しい農村への旅は、蚤や小さな得体の知れない虫や蚊がいるのが当たり前のことだった。
そんな中での旅だったことは、私にとっては驚きだった。
そして、以下のようにも評価されている。
以下引用
期間の長さ、世界の広がり、そして、旅に基づく作品にとどまらない膨大な著作や講演活動を総合的に判断すれば、女性という枠をはめずとも旅行家の頂点に位置する一人と評価できる。1891年に王立地理学協会特別会員の栄に女性で初めて浴したのはその証しの一つである。希代の旅行家バードへと展開する基点が、78(明治11)年の日本の旅とその記録だった。
用意周到に計画された旅行ルート
開港場で活動していた宣教師や著名人シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルト、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボン、アーネスト・サトウらの公使館員・領事といった在日欧米人はもちろん、外務省や開拓使、内務省など日本側の支援もあった。これらもすべてパークスの依頼に由来した。日本側の支援は府県以下の役人や医師・教師、宿の主人や子供にまで及んでいた。夏の最中に冬の遊びを見せてもらい、葬儀や結婚式にまで参列できたのはこのような協力があったからだった。さらに、アイヌの文化と社会の把握、そしてその記述を旅の一大目的にしていた彼女にとって、平村ペンリウク(アイヌの指導者の一人)以下、平取のアイヌの人々の協力も不可欠だった。これもパークスが開拓使を介して手配した。本州北部の旅先で、人々がバードに強い関心を抱き、一目見たいと障子に穴を開けなどしたのは、彼女が立派な女性だと伊藤が吹聴していたからでもあった。
彼女の旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていた。また、旅は行き当たりばったりのものではなく、用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていた。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実相を明らかにするためだった。旅で用いたブラントン日本図(※2)もパークスの命によって彼女のために作成されたものだった。