それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

引き算の美学

 

豪邸の続きになってしまうかもしれません。

私が一般市民の生活だから豪邸の良さも分からないのかもしれません。
豪邸に生まれ育った方もいて当然なので、どんな住まいがどうだとかは言えないことだと思います。
誰にとっても、故郷が一番なのだろうし、育った家というものは”住めば都”で愛着のあるものだと思います。
子供の頃は大きな家、そしてお庭が立派な家、テラスと緑の芝生が一体になった家などに憧れた時期もあったように思います。

 

しかし、大人になってみると、特に一家の主婦になってみると、自分中心に「管理する」という能力を必要とするようになると、「家」に対する考え方が変わっていることに気づきます。
そして、思うのです、「豪邸」はいらない、と。

 

ただ、社会的なステータスだとか、防犯システムが最重要だとか、家だけでも豪邸クラスにしないとプライバシーが確保できない、などの事情があるクラスの方々は確かにいます。
要するに暮らし方の違いが住まいに表れるということですね。

だから豪邸は豪邸ばかりの地域にあるものなんですね。

 

そんなことを考えていて「引き算したらいいのにな」と思ったのです。
あの、天井にシャンデリア付けて、周りの壁にこれでもかと壁照明をくっつけて、アイアンの階段の手すりの装飾を、隙間がなくて呼吸できないくらいに付けて等々、したいことを全部足し算しちゃった内装に、住む人の足し算主義が見えてしまって居心地の悪さを感じたのです。

 

照明もそうですね。
夜使うから照明ですが、私は、夜は夜の暗さがあっていいと思っています。
必要な場所のみ必要な照度があればいいので、その為に生まれる陰影が心理的な安定をもたらして、ゆっくりと睡眠へと誘ってくれると思うのです。
だからカンカラと照らす多すぎる照明は要らないと思うのです。

 

それに、豪邸を所有するような年代はそんなに若くはないだろうと思う。
そうなると、少なくとも自分にとって必要なものと、必要でないものが分かってきている年代だと思うのです。

でも、まだ、あれも欲しい、これも欲しかった、これも持ちたい、の意識を実現化している類の人達もいるのだなと、感慨深い。

 

単純に、
おしゃれな人は肩から上だけの鏡で自分を眺めないと思う。
そうでない人は顔から首くらいの鏡で自分を眺めそうだ。

 

そして、前者は全体から不要なものをはずしにかかるだろう。
例えば、ピアスを引き立てたかったら、ネックレスはやめようとか。
そのピアスのために、耳から首の線をすっきりするために、ダラダラと髪を伸ばさず、
シャープなショートヘアにする、などというのも素敵です。

 

後者は、ネックレス、イヤリング、ああ、髪にバレッタ、なんて全体のバランスを悪くする作業をどんどん進めて行ってしまう。

付けたことに満足するのだ。

私は不要なものは削ぎ落して、自分にとって、自分の生活にとって必要なものしか残さない、引き算を心掛けていたい。
「引き算の美学」を常に考えるのが性に合っているようです。
いつもいつもうまくいくわけではありませんが、意識はしていたいのです。

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理想は、ターシャ・テューダーさんの暮らしです。