それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

「奇麗になりますね。」

初夏に向かって植木の剪定が忙しいと時々書いていますが、相変わらず「チョキチョキ」とやってます。

アイビーの繁殖力は半端ないし、他の植木達もグングンと枝を伸ばし、葉っぱは大きくなる。

 

そんな生命力溢れる木々を見てるのは嬉しいことだけれど、やっぱりモサモサになるのは

見ていて息苦しい。

だから、少しの時間でも、剪定鋏の出番となって、朝から葉っぱを落とす。

同時に根本の雑草も気になればどんどん抜く。

 

そんな作業を、猫の散歩中に、

「あっ、散歩終わったらこれを切っておこう。あっ、こっちも増えてるな~、これもだ。」

なんて狙いを定めながら、散歩に付き合う。

一応、「トネリコ」の木。

 

ちょっと暑いな、と感じながらも、作業していると、散歩中のおばあちゃんがニコニコ近づいてきて、

「奇麗になりますね~。」

と、声を掛けてくれる。

 

「おはようございます。すぐ繁殖しちゃうので剪定が必要なんですよ。」

なんて応えながら、内心は嬉しい。

 

見たまんまを、その様子を自然に言ってくれる人の声が嬉しい。

そう感じてくれるんだと思うと、周囲を奇麗に保つことの影響を大事なことだと思うのだ。

 

通りがかりの人が、以前にもよく声を掛けてくれていた。

「よく手入れしてますね。」

「いつも奇麗にしてますね。」

と、言ってくれる。

 

狭い、庭とはいえるかどうかわからない広さの場所だけれど、木々の緑が息吹いて

風に揺れたり、ハラハラと葉っぱを落としたり、朝陽を浴びてキラキラと輝いていたり、

ツガイの野鳥たちが休んだりしている風情は手を掛けた分のご褒美だと思える。

 

通りがかりの人の「声」も私に笑顔と癒しを下さる、最高のお褒めの言葉となっている。

「ありがとうございます。これからも作業頑張ります。」