人は見ているようで見てない、見てないようで見てる。
私の母がよく言っていた言葉だ。
人が自分をどう見るかなんて気にすることはない、自分が思った通りでいい。
人の意見や視線によって自分を失うなと。
しかし、
人は見てないだろうと、あまりに自分勝手なことや、倫理に外れたことをすれば、
必ず誰かが見てるものだよ、と。
(今の時代、物理的に、防犯カメラで映ってしまうけどね。)
誰も見てない、時でも「神様が見ている」と。
この部分は、曽野綾子さんが自分を律する意味でそう書いていた。
世間の目が気になったら、「誰もあなたなんか見てないから」と一蹴。
もしかしたら、自分の意志ではないことをしなければならない時、
「いや、自分らしくいられない」と、自分を律していなさい、と。
前置きが長くなりました。
昨日朝、2紙目の新聞を配達してくれる女性の方に言われたのです。
「まめったいですね~、いつも朝早いですよね~」と。
「まめったい」久し振りの単語だ。
まめによく働く、とか、よく気が付くとか、動作が早いとか、そんな意味で使われる。
私が猫の散歩している時にも会うこの人が、そう声をかけて、「おはようございます!」と言った。
散歩終わって、庭の掃除とか、デッキの拭き掃除とか、簡単な木の剪定など、早い内にまとめて、暑さを回避目的で早朝の家の外部分を綺麗にリセットする。
だけど、「暑いから~、」の理由でそうなっているのか、新聞配達人は知るよしもない。
朝から雑巾持って、箒持ってウロウロしてれば、目に入りますよね。
褒めて下さったようです。
「私(配達人)も早いけど、もっと上手がいるんだ~」
と、認知されたのかもしれない。
「見てる人は見てるからね」の母の言葉が蘇った。
朝の掃除は、自分の気持ちが清々しくなるのと、実際に周りは綺麗に保たれる。
それを、「見ているよ」
と、声掛けられて、やっぱり嬉しかった。
この母の好んだ言葉は、いつも自分の軸でいてくれてるように思って大切にしている。
追記:
ちょっと天狗気味になりがちな人、自意識過剰な人にこの一言。
「誰もあなたのことなんか見てないよ!」