それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

自立と自律

先の日曜日だったかと思うが定かではない。
あるTV番組を何気なくみていた。
それは、ある元眼科医の男性が妻に先立たれて、その後の日々をどう暮らしたか、ということを取材したものだった。
彼は年齢70台後半で、足腰も丈夫で、普通に生活するには何の支障もないように見えた。
何が困っているかというと、家事が何もできなかった、ということだ。
写真でみると、品の良い素敵な奥様は、ご自分の病気で夫を残していかなければならないと悟った時点で、
彼に洗濯の仕方や必要なものの場所など教えて亡くなった。

それでも、いざ亡くなられると、
洗剤の種類がわからない、洗濯物の干し方が変だ、うまくいかないなど、いろんな壁にぶつかる。

勿論、「喪失感」から立ち直る時間も必要だったので、精神的な立ち直りにも二年程の時間がかかった。
そして、現在は失敗しながらも、料理を楽しむこともできるようになっていた。
ただ、ご飯を炊くのが面倒らしく、パックの温めるだけのもので済ませていたようだ。

これを見ていて、すぐに思いだしたのが、「晩年の美学を求めて」(曽野綾子:著)だ。
2006年著者が74歳の時に出版されたようだ。
「中年以後」という本も読んでいたので、自然とその本も読んでいた。

f:id:e-keiko:20180206202927j:plain

「晩年の・・」の中に”自立と自律”という章がある。
「自分のことは自分でしましょう」は、依存性から、一刻も早く脱却しましょうということだった。
「電池も替えない、電池も買わない。茶碗も洗わない、お米も研げない、布団も敷かない。云々・・・」
と、こうした男性像を部分的に何度も見たり聞いたりしてきた、という。

「非常識家族」、これも曽野綾子さんの書いたものの中に、
「昔は電球が切れ、ヒューズが飛ぶことがよくあったが、その都度奥さんを呼び、かえさせた男性がいた。
それが東大工学部出身である。私たちは東大工学部というのは何て無能なんでしょうと、笑い転げた。」
という部分がある。
そして、
「東大工学部大工科(?)出身でないので釘一つ打てない、と笑った。」とある。

「非常識家族」は、大笑いしながら読んだ記憶がある。スカッととしながら。

こういう男性は少なくないだろうなと思った。
孤独に苦しんだ男性には申し訳ないのですが、男性は、仕事さえしていれば、一家を食わせていくことができれば、些末な家事は女にさせればいいという社会に甘えてこなかっただろうか。

家事にも、仕事にも「段取り」というものがある。
この段取りをし続けることが、老年において人間としての基本的な機能を失わせない強力な方法なのだという。

私は、目の前のことも、人生の時間の中でも、必要なことだといつも思う。
急に、何かを始めるではなく、独りでも、独りになっても、自立して生きるためにはそれなりの段取りが
必要だと思う。
男も女も、家事は必要最小限でいいからできるようにしておく。
男女とも、「男の仕事だから・・女にはできない」とか、その逆とか言わないで一人の人間としてできることは
する。

できないのと、しないのとが、癒着する。
自律がいいことだと思わないと、自律しようという気分にもならない。
一人の人間として慎ましく生きることへの訓練を、なおざりにしてきた環境が許されると、関節でも脳でもすぐに錆びつく。始終動かしていなければならないのが老年である、と彼女は言う。

私は、脚立にも乗る、重いものも持つ、持てないなら持つ方法を考える、そんな日々を送っているつもりだ。
このパソコンやスマホのことで悩むことは多々ある。
「どうしてこうなるの~?」
とか、
「何で動かない?どうしたら、使える?」
と、解決できるまで逃げないことにしている。
壁こそが成長のチャンスなんだから。

あのTV番組の男性に、エールを送りつつ、このことを言いたかった胸のつかえが取れたことを感謝したい。

 

 

 

クリスタルガイザー  クリスタルガイザー  クリスタルガイザー