それって当たり前?

日々感じたことを徒然に。

よく咲くパンジー?

昨年の暮れに、お正月を迎えるに備えて植え替えをした鉢植え。

 

市内各所にあるJA(農協)の前庭で年中色とりどりの季節の花苗を売っている場所で仕入れたものだ。

冬場はパンジー、夏場は日日草、インパチェンスなどその季節に強い花苗を植えることにしている。

 

寒い季節に色採りを与えてくれる花を選んで玄関ポーチに置いて楽しんでいる。

 

パンジーは花が小さいものだと一つ一つは可愛いが全体の中で見ると迫力?がない。

以前からある普通の花ビラの大きさのものが元気で鉢全体に咲き誇ってくれる。

 

だから、いつもは従来物のパンジーを選んでいた。

しかし、ちょっと惹かれる名前が付いていたパンジーがあった。

「良く咲くパンジー」と。

 

「わあ~、すぐお正月に咲いてくれるかもしれないのか?いいなあ~。」

と、鉢植えに合う数の苗を買って早速植え替えをした。

 

ところが・・・・・、従来物のパンジーがさっさと花を付けているのにそのパンジーは葉っぱが

繁るだけでちっとも花を咲かせない。

小さな蕾があるようだけれど、一体いつになったら咲くの?という状態だった。

勿論お正月にも、葉っぱのみの鉢植えでいた。

 

それが、今、2月上旬になって元気に花開いているのだ。

 

 

2か月弱の間葉っぱだけだったのが”良く咲く”状態を誇っている。

「う~ん、騙されてしまったのかな?」

と、ずっと残念な気持ちで見ていたが、その苗によって咲く時期というのがあるんだと納得した。

 

こうして花の咲く様子を見ているといろんなことを教えてもらうような気がする。

 

苗の咲く場所が合っているか、季節気温が適切か、土はどうか、等々。

そして、植えて、開花を待つ私は、その本当の”力”を待ってあげているかと。

 

時間が経ってようやく開花する花、一度開花するとどんどん豊かに花を付けて驚くほど

長く楽しませてくれるものだったりと、咲かせてその花本来の力は咲いてみないと分からないということを知る。

 

冬場に強いベコニアに期待をよせていたのが、場所が合わなければ一冬持たなかったり、

夏場のインパチェンスがまだ頑張って花を付けていたりとなる。

 

そんな花達を見ていて、いつも連想するのが”子育て”のことになる。

その花に合った場所、屋根の下だとか、全くの空の下だとか、陽当たり具合、水遣り具合、

土との相性等々あって、合った場所で咲く。

 

早咲き、遅咲き、等々あるだろう、その成長を信じて待つ気持ちで”子育て”したかなあと

振り返ってしまう。

 

ま、大成功とかそんなことでなくても、心身共に健康で社会人として自立しているだけで

彼等それなりの人間に育ってくれたのだろう、と彼等色の花に見立てて見守っている。

 

「良く咲くパンジー」は今、良く咲いて、その秘めていた力を発揮している。

騙されたなんて思ったりしてごめんなさい。

 

費やす時間がその人の仕事?

費やす時間がその人の仕事?
人それぞれ目に入ること、気になること、許容できること、できないことがある。

音楽を追究してきた人にとって何より重要なことは音の違いだろう。

プロの人達にわかって、普通の人に分からないことだろう。
しかし、音楽以外のことはあまり気にならない、無頓着だったりする。

 

女性の音楽家であって、主婦も兼ねているという人の日常を拝見して、思うこともあった。

「何かを一途に追及するということは何かを捨てなければできないことなのかもしれない。」と。

 

社会的に活躍する女性は数知れずいる。

それぞれの人がどんな生活をしているのかは、その家族がお互いに我が家はこんなものだと思って暮らしているものだと想像する。

 

ただ、何かに成功を収めるということは、女性でも男性でもそこにそれらの人の大部分の時間を費やすということだと思う。

時間と同時に意識もだろう。

 

楽家、芸術家、アスリート、建築家や技術者もそうだろう、「仕事」に意識と時間は集中するだろう。

 

だから、人の仕事とはその人が費やす時間で決まるのだろうと。

 

主婦中心の私は、あれこれと他のことにも時間は費やすが、それでも、主婦業の時間は一番長いと思う。

 

社会的には「○○家」と名乗れる職業の人は、他の「▽▽家」の足りている部分を見るものだろう。

しかし、「~~家」と名の付かない主婦から見ると、特に女性「○○家」の足りない部分が見えることを理解できるだろうか。

 

男性の「○○家」には奥様がバックで家庭を支えている場合が多い。

しかし、女性の場合はバックに「主夫」がいてくれることは稀なことだろう。

 

何故こんなことを言うのかというと、人の意識って”仕事”以外の所は低いものなんだと思うからだ。

 

人間は完璧ではないから当然なのだろう。

意識の凸凹。

 

凸が何であって、凹が何か、それの差異が大きければ大きい程、「○○家」は大成するのかもしれないし、差異が小さい程、並みに生活全般に意識が回るのかもしれない。

 

過去、現在も継続中であったりするが、私は「一芸に秀でる訓練をした人、仕事中心に生きた人」などに関わった時、彼、彼女らの足りない部分も見えて、どちらから見ても、同じようなことが言えるのではないかと、それぞれの生き方を認めればよいのだと、そんな時思ったのだ。

全くの個人的な意見ですが・・・。

 

草間彌生さん。芸術家としての一例。プライベート部分は存じ上げない。

 

 

  

回復の証はいつものポ━ズ。

ジ厶でのお喋りの中で。

ペットが病気になったそうだ。
小さな身体のチワワちゃんだ。
 
チワワちゃんが下痢状態になって食事をしなくなりどんどん衰弱してしまい、獣医さんにかかったそうだ。
 
ペットの話になるとやっぱり診療費のことが頭が痛い。
しかし、だからと言って症状が出ているペットを放っておく飼い主はいないだろう。
そのお宅でも、初診料48、000円だと言っていた。
 
解る、我が家の猫も各種検診料、注射、投薬、等重なると40,000円位当然請求される。
 
だから、ペットの飼い主は最近ではペット保険に加入している。
チワワちゃんの飼い主さんも3,000円/月の保険料を払っていると言う。
我が家でも、31,000円/年の保険料を払っている。
 
これも、ペットの健康状態、大きさ(特に犬の場合は大型犬と小型犬では保険料が違う。)
年齢等によって保険料は違ってくる。
 
我が家では猫が10歳を迎える頃保険加入を考えた。
加入前の健康状態、持病などによっては加入できないからだ。
だから当然、保険会社が指定する動物病院で検査して加入が認められた。
それでも、診療費の50%とか70%の支払いを選んで保険料が決められる。
 
話は逸れるが、柴犬の牡を飼っていた方がまだ5歳だったので保険加入を延ばしていたところその犬に腫瘍が見つかって、診療費が80、000円強ということがあったらしい。
それでも、飼い主は治療をしたいと思うのだ。
 
結局、入院させるとか手術とかの治療は止めて、緊急の治療などだけにして、自宅で安心して家族と過ごすことを選んで数か月後にその柴犬は亡くなった。
 
その飼い主さんはペット保険加入が遅かったかもと、少し悔やんでいたけれど、5歳くらいだとまだいいだろうと思うのは仕方のないことだ。
その家族は現在ペットロス状態だと話していて、ワンコにはするだけのことはしたので、
次に迎えるワンコを探しているそうだ。
 
話を衰弱したチワワちゃんに戻すと、家の中で走り回って遊んでいたのに、全く動かなくなって飼い主さんに甘えることもしなくなりぐったりしていたそうだ。
病院で10種混合の注射をして具合は快方に向かったそうだ。
 
その証が、いつもの飼い主の女性に甘えて、身体全体を使って、
「抱っこして!抱っこして!」
が戻った事だったと言う。
 
「抱っこ、抱っこ」
がひどくて、その女性が言うには、
「小鳥が肩に乗るようにずっと肩に乗っていて降りないの~。もう大変。」
 
「解る解る、最近”おんぶ犬”っているじゃない?おんぶしてあげれば安心するかもね。」
と、私。
 
 
 

「おんぶ犬、おんぶ猫、みんな安心しきって可愛い」

 

いずれにしても、ペットと言えども子供と同じ、家族なのだ。
大型犬にも、小型犬にも躾けは必要だけれど、甘えてくれるのが嬉しいのも飼い主
の勝手なところなのだ。
 
元気な時の日常は何気ないことだけれど、ペットにとっても飼い主にとっても大事な大事なことなんだって、感謝していないといけないんだと思った。
 
 

俺と私の全盛期。

車で移動中FM放送のラジオを聴いていた。

 

毎日の話題が変わる中で、リスナーからの体験を募集するという方法らしい。

その話題が「俺と私の全盛期」というものだった。

 

「へ~、リスナーの方はどんな全盛期を発信してくるんだろう?」

と、耳をダンボにしていた。

(この表現、分からない世代の方もおられるかもしれないので、「耳を大きくして」と捉えて下さい。「ダンボ」というアニメーション映画があったのです。)

 

それで、誰かの体験を聴きたいと思っていたのですが、生憎すぐには発表がなく、パーソナリティーの独り言が続いていた。

 

目的地に到着してしまって、その後のことは解らずじまいでしたが、この「俺と私の全盛期」

ということを自分に当てはめたら何だろうと考えてみたくなった。

 

「全盛期。」っていうことは過去のことであって、その人にはもう「全盛期。」は終ったと認める

ってことなのか?と意地悪く思ってしまった。

 

「今までの人生の中で一番嬉しかったこと」とか、「一番感動したこと」、あるいは「失敗しちゃったこと」とか「モテていた時期」とかならエピソードとして聞いてみたいと思う。

 

でも、生きてれば、幾つになっても、

「もう、終わった!」

と、扉閉めてしまうなんて勿体ないと思うんですよね。

 

死の床について初めて、自分の人生振り返って、

「ああ、楽しかった。」とか、「いい人生だったな~。」とか「これが人生というものなんだな。」

とか感じたいと思うのですが。

 

もっと単純に受け入れればいいじゃないかとも思うけど、私は思う。

「え~、こんな歳になってこんなことが起こるの~?!」

と、いうようなことがあるかもしれないと密かに楽しみにして生きていたいと思ってるんです。

 

それには、それなりの努力や行動があっての話だけれど、そう思っていると、ささやかなことにも文句言ったり不平を呟いたりしないで、

「これを何とかして乗り越えよう、頑張ってみなくちゃ!」

とチャンスに切り替えられるかなとポジティブに行動できるように思う。

 

何にもご褒美は無かったとしても、自分の中で

「できた!」

の結果は自信と喜びとして感じることができる。

 

日々の、日常の生活の中に、そんなことはいくらでも転がっている。

「今日も、予定していたことを全てクリアーできた!満足~!」

だけで、また明日の予定を計画できる。

 

究極の話として、人生の最期、ベッドに横たわって死を迎える時、

「あの時の事楽しかった~!あそこへ行ったからあの人に会えた~!あの人に会えたから

、そこからあそこへと続いてあんな経験ができた~!一歩踏み出してよかった~!」

などと、経験を振り返って自然と笑みが浮かんでくるような情景を想像したいと思っているのです。

 

それを想像するだけで、その時の為に思い出すコンテンツをいっぱい作ろうと思う。

 

だから、過去の「全盛期」で終わらないで、それを越える「全盛期」が来るかもしれないことの方が楽しみだと思っているんです。

 

歳を重ねる毎に、物事に対して多角的に幅を持って、深さも厚みも持ってゆったりと感じることができるようになる。

だから、「全盛期」の内容もどんな風に変わっていくのか想像してみる。

 

私が、FM放送に投稿するなら、

「いろんな年代に、素敵な出会い、経験は其々あったけど、終わっていません。

全盛期はまだまだ先に行ってから見極めたいと思っています。」

と、なるでしょう。

 

 

  

 

手を貸してもらって…。

ジ厶でトレーニングマシンの調整に手間取っていた時のこと。

 

会員さんの性別、身長、体重、骨格、体型などは様々だ。

そんな環境の中でのトレーニングでは使用する人が自分にあった負荷を決めて、マシンを調整して始める。

 

その中で下肢を鍛えるマシンを使おうとすると、誰でも始められる「ニュートラル」の位置に

戻してなかったりすることがある。

身長の高い人なら動かせる位置にしたままなのだ。

自分で「ニュートラル」な位置にしようと試みるが、うんともすんとも身長が足りないせいで

動かない。

私は女性として小さなほうでも大きなほうでもなく、平均的な身長なのにだ。

 

そんなことが過去にもあって、近くにいた男性にお手伝いしてもらったことがある。

今回もスタート時点で調整できないでいた。

女性だからといって、それぞれ各人のトレーニングに励んでいる男性に声を掛けてばかり

では申し訳ない。

自分の力で何とかしようとしていたところ、だいたい同じ時間帯でトレーニングする男性が、

「直そうか?」

という合図をしてくれた。

 

以前にも直してもらったので、

「お願いできますか?すみません。」

と、素直に頼んだ。

 

ササッと調整してくれて、

「元の位置に戻すように注意書きしてあるのにね!?」

と、笑顔を残して戻って行った。

 

その時の、合図、目と目が合っただけで、私のしたいことを理解してくれた。

多分、私が爪先を使ったり、一旦降りて全身で動かそうとしていたのを見ていたのかもしれない。

「ああ~、動かない。」

と、使用を止めようとがっかりした様子だったと思う。

 

ジムの中でも時々お話などする位の関係だったから、声掛けもスムーズにいくのだと思うが、

今時の「○○ハラスメント」に厳しい世の中では、男性から言わせれば、やたらと簡単に女性に声を掛けられないと言う。

 

だから、日頃の挨拶や会話でお互いを知っておくということは大事だなと思う。

 

こちらから声を掛けるでなく、彼が私の様子から助けが必要だと理解してくれたことが凄く嬉しかったのだ。

 

私は、先ず挨拶と思っているので、初対面の会員の方でも、目の前にいればはっきりと

「こんにちは!」

と、声を掛ける。

 

男性は、シャイな人が多い。

でも、「こんにちは!」と返してくれる。

 

最近は、後ろ側から、

「こんにちは!」

と、声を掛けられて、驚いて

「あ、こんにちは!」と返すこともある。

 

向こうから挨拶してくれるのだ。

 

ジャングルのように沢山設置されているマシンの中からニュ~ッと現れて、目があったと同時に笑顔とお辞儀で挨拶を送ってくれる人もいる。

 

「あ、○○さんだ。こんにちは!」

と意思表示してくれたことが伝わる。

 

黙々とトレーニングする性質の男性が多い中、今のジムではお互いに必ず挨拶し合うようになっている。

 

女性会員は少数だし、時間帯によっては独りだけということは多い。

だからこそ、女性特有の依頼心のような態度や、トレーニング中の時間を邪魔するような行為や、時々いるお喋りばかりして一生懸命集中している人の意識の邪魔になるような過ごし方はしたくないと思っている。

 

使用マシンや負荷は違っても、お互いに「鍛えるための時間」ということを尊重していたいと

思っている。

 

民間の経営するジムと違って、ある会社の福利厚生施設として立ち上げられたジムに、

たまたま縁あって入会を許されているのだ。

とても、環境がよくて安心して楽しく使わせて頂いている。

 

 

春のような陽気・・・。

用事があって、少し郊外に出掛けた。

 

用事を済ませて時間をみるとランチに丁度いい。

お天気もいいし、独りランチをしようと、私の「お店ストック」の中から近いお店を選んだ。

 

サラリーマンがやって来る時間帯より少し早いのでまだ、ゆったりとした雰囲気だった。

 

コーヒーも付いていたので、ゆっくりと窓の外を眺めながら、久し振りの時間を味わった。

 

外に出ると、少し風がある程度で、春らしい陽気が一杯だった。

360度、ぐるりと見渡すと、赤い花をいっぱい付けた木があちこちにある。

「もう、桜?それとも梅?」

と、よく見てみても、それ以外かもしれなくてよく解らない。

 

 

でも、このレストランは周囲をなだらかな山の麓の木々に囲まれていて、その延長の木々も

ずっと続いていて、青空とのコントラストが贅沢なくらいの景色を見せている。

 

食事をする時の条件の一つに、席から何らかの「緑」が見えることということを密かに大事にしている。

小さなお店でも中庭を大事にしているお店とかであって、ビルの中に閉じ込められて壁に四方を囲まれてしまっているお店などは苦手だ。

 

窓の外に行き交う車や人の様子が見える所も「生の風景」を楽しめる。

 

だから、用事を済ます場所の近くに、そんな条件を満たしてくれるお店をストックしている。

 

そんな中で今回のランチは「春の陽気」を降り注ぐように与えてもらったのです。

 

 

口座引き落としに無頓着!?

お小遣いが足りなくなる夫。

大体が毎月同じような時期だ。

 

その度に、こちらで何とかしてくれることを安易に考えている。

余りに頻繁だと、金銭感覚を疑うしかない。

 

こんなことを繰り返していたら家計もやっていけない。

それは、何としても阻止するしかない。

 

 

どうするか?

口座の入出金を精査、整理してもらうことにした。

あまりにアバウトに考えて、どんぶり勘定で出金しているからなのだ。

 

自分の現状把握の為に、せめて過去一年分の口座状況をノートに書き出してもらうことにした。

夫婦でも、個人の口座内容を公にはしたくないところだが、家計からの負担を考えると

数字で解決するしかない。

 

彼は、ノートに書き出してみても、だからどういう解決策を講じるかまで突き詰めようとしない。

芯からアバウトなのだ。

 

現役時代は「ボーナス」という補填の方法があったが、今はそんな方法はない。

しかし、そういう方法が染みついてしまっていて抜け出せない金銭感覚なのだ。

 

結局、税金などの公的に引かれるものも年間支払い額を月平均で明らかにして、

毎月使える金額を意識してもらうことになった。

一カ月の金額が出れば、一日当たりの金額も明確になる。

 

驚いたことは、引き落としの内容をきちんと把握していなかったことだ。

「○○保険?」

「これは何?いつから何年位払っているの?その証書は?内容は?」

に対して、

「分からない。請求書(が来るはず)も分からない。」

 

保険については、本人も同席して更新時に内容を今に合わせて、契約し直している。

家計の方から、きちんと支払っているし「火災・地震保険」も万全にしてある。

それなのに、昔から入っている保険をほったらかして引き落としだけが続いていたのだ。

その保険会社をネットですぐ調べて週明けには解約手続きを約束した。

 

次はクレジットカードだ。

「年会費が引き落とされるクレジットカード?頻繁に使う?」

に対して、

「殆ど使わない。」

現金主義のようだ。こういう類の人はその方が安全だ。

 

今時、年会費を要求するクレジットカードなど必要ない。

年会費無しのクレジットカードが一枚あれば十分だ。

 

そんな作業をして、日々の暮らし方をはっきりとさせた。

使用可の身の丈の金額がだ。

本人も全くのどんぶり勘定を反省していた。

湯水の如く湧いて来るお金などないのだ。

 

細かい話だし、窮屈な感覚でもある。

しかし、それを意識しなければ、永遠に命尽きるまで「足りない、足りない」

を繰り返すことになるだろう。

 

今不必要な保険を解約し、不必要な年会費は支払わない、どこを倹約するかは

記録となっている引き落とし額ときちんと向き合うことなのだ。

 

お金は、入り方、使い方のバランスをしっかりと意識すれば有効に使えるものだと

思っている。

 

お金に振り回されない、自分が使いこなすものだと、改めて思った。